ピダハン続き
私はプロローグを読んで、
既に感銘を受けた。
これだけでは、内容を読む前では、
その意味するところを、
深く理解はできないはずだが、
著者の素直で謙虚な姿勢が滲み、
大変好ましく思えたから。
プロローグの結びの文を引用する。
「ピダハンはわたしに、天国への期待や地獄への恐れを持たずに、生と死と向き合い、微笑みながら大いなる淵源へと旅立つことの尊厳と、深い充足とを示してくれた。そうしたことをわたしはピダハンから教わり、生きているかぎり、彼らへの感謝の念を持ち続けるだろう。」
これはピダハンが結局キリスト教を、
受け入れなかったということだ。
著者が大変な努力の末翻訳した聖書の顛末は、
本の終わりの方にごくさらっと出てくる。
「おれたちはおまえが好きだ。おまえはおれたちといていい。だが、もうおまえからイエスの話は聞きたくない」
とはっきり言われてしまう。
彼らは宣教師という仕事を理解した上で、
おれたちにイエスはいらないと告げた。
ここまでたどり着くまでの苦労、、、
ピダハンはピダハン語しかわからない。
そのピダハン語を知らない著者が、
一つずつ言葉を覚えていく過程は、
高野秀行の本のことも思い出す。
本人も書いているが、著者には、
言語分野に適正があったようだ。
ピダハン人は、近隣の人々から、猿と。
ズバリ、バカにされている。
彼らは小柄で、男はパンツ、女は、
地味なワンピース、子どもは裸である。
素敵な民族衣装もなければ、
独特の儀式というような物も持たない。
文化人類学者が興奮するようなネタが、
見受けられない。
しかし、
彼らはいつも微笑んでいるか笑っている。
幸福そうな人達。