モロトフの続き、また
またボイルの本です。
「オメラスから歩み去る人々」について書かれたくだりがある。
これは読んでいなかったので、
今回これが入った短編集を買った。
幸福な理想社会、オメラスの祝祭の様子から物語は始まる。
理想的な社会には何が必要で何が不要かという、
語り手の皮肉な口調が挟み込まれており、
物語として丸くまとまったものではないところが、
少し風変わりな一文である。
ま、それはさておき、
実はオメラスの平和は、
1人の子どもの不幸と引き換えに成り立っている。
地下の座敷牢のような場所に幽閉され、
汚物にまみれて生きている子どもが存在する。
オメラスの人々はある時期にこの事実を知らされ、
またはその子を見る機会を持つ。
衝撃を受ける人々も色々理屈を付けてやがては忘れ、
幸福な日常に戻る。
しかし、オメラスを立ち去る人も、時々いる。
みなたった1人でひっそりと歩み去る。
そういうお話である。
歩み去ることは、高潔な態度か。
事実を忘れて自分の幸せに浸る人と、どこが違うか。
どちらも子どもの苦しみを取り除くことにはつながらない。
立ち去るだけでは不十分であるというのが、
ボイルの主張になる。
我々の社会も吐瀉物と糞尿にまみれ、
病んだ子どもを踏み台にして成り立っている。
量販店の安価な衣料品などが、
バングラデシュなどの若年労働者の、
低賃金で過酷な労働によって作られていることを、
知っている人も多いだろう。
もちろん国内にもこういう構造はいくらでもある。
犠牲者を人間以外の生き物に広げれば、
嫌という程実例がある。
しかし、我々は立ち去りさえしない。