松井なつ代のやま

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「現代思想」3

斉藤環氏の文章は非常に明解である。
引用
「植松容疑者の考えは「狂気、クレイジー」ではあるが、
「真性妄想、マッド」とは考えにくい。
後者は共有困難な誤謬だが、前者は賛同者を巻き込み集団的に共有されうる「思想」だからだ。」
「障害者は生きる価値がない」という「思想」はまぎれもないヘイトクライムの発想である。しかし、実行には至らないまでも、そう考えている人は少なからず存在する。「生きる価値がない」は大袈裟でも「そばに存在して欲しくない」と考える人ならむしろありふれているだろう。」

こう言える理由として、「この国が戦後一貫して、
弱者や障害者を隔離して囲い込むことに専念してきた歴史があるからだ」と。

以前イタリアの精神病院を無くす運動についての本を読んで、
このブログでも紹介した。
(もし興味があれば本のカテゴリで検索してみてください。)
現在イタリアには精神病院は無く、入院している人はいない。
かたや、世界で日本ほど多くの精神障害者が、
入院治療を受けている国は他にない。
精神科のベッド数は34万床、
人口当たりOECD加盟国平均の4倍である。
ほぼ同じことが障害者はの施設についても言える。
「Not In My BackYard ism」NIMBYSM
必要なのは認めるが余所でやってね」 の蔓延、
「異様」以外いかなる言葉で形容すべきか、と書いている。

斉藤環の線引きに対する答えは単純明快。
「人間の生の価値判断が可能である」とするのは誤謬だ。
「生」こそがあらゆる価値判断の基準であり、
「生」そのものの価値半判断は原理的に不可能である。
強いて判断するなら
「すべての生には平等に価値がある」と考えるほかない、と。