松井なつ代のやま

ステンシルのイラストや本の紹介、麹の話、そのたいろいろ。

モロトフの続き

ボイルの本です。

この世に良い暴力悪い暴力、
大事な命そうでない命があるのはなぜか。

その選別をしているのは人間であり、
そこには人間が一番偉いと言う人間中心主義があります。
人間は唯一の知的生き物であって、
知性の集大成である科学が絶対的な信頼を得ている。
あくまでも現時点の、であるにもかかわらず。
また、人もまた生態系の、
単なるいちメンバーであるという意識がない。
そして現代人は、
長いスパンでものを考えるということをしない。
これらの特徴はどれも、
先住民の考え方にはなかった、ないものである。
彼らは他の生き物と共生する術を知っていたし、
過去から未来に続く長い時間の流れを見ることができた。
したがって暴力的ではなかった。
生き物を食べることは必ずしも暴力ではない。
生と死は、生態系の中に織り込まれた
常に繰り返すシステムである。
敬意を払って食べられた命は、
生のエネルギーになると言うこと。

彼らにできて我々にできないのはなぜか。
身も蓋もないようだが、頭が悪い、賢くないと言うことだろう。
自己中心的で短絡的な人は、
昔からダメな奴と言われてきたと思うが、
今では全員揃ってコレだ!
一番最初に、頭と心と手、ということを書いた。
これはその後吉田さんに教えてもらったのだが、
head,heart,hands、
ガンディーの系譜を継ぐサティシュ・クマールという人が、
好んで口にする、3つのHであるそうです。
これについてずっと考えていたが、
手と心を使わずに頭だけを使うことは可能だが、
手を使うとき、頭と心を使わないということは不可能な気がする。
ただし手でやることが、作業全体の流れの中の、
切り取られたごく一部でない限りにおいてだが。
昔、石牟礼さんが、
若者がもっとよく考えるようになるには、
どうすればいいかという問いに答えて、
手を使えばいいのではないかと、
さらっと、答えていたのを思い出す。
ボイルの本で、暴力とは何かという例で、
もし夜あなたが、女性が複数の男たちにレイプされている現場に、
行きあったとする。
彼女を救うためにそばにあった角材を使って、
男たちに攻撃したら、これは、暴力だろうか。
著者は、命を救うために、愛と正義の元に発せられたものは、
暴力ではないと、見て見ぬ振りをして立ち去ることが、
暴力であると書いている。
愛と正義は心の領分だろう。
今の日本を考えると、レイプ犯に立ち向かう人はまずいないか、
かなり少ないと考えられる。
何せ痴漢は男の権利と言う人がいて、
レイプの被害者に数十万の嫌がらせメールが届く国だから。
こういう例そのものが意味を持たないのか…
というさえしてくる。

手を使わなければ頭も心も育たない、
と言うのはバカバカしいように聞こえるかもしれないが、
意外に真実なような気がする。