松井なつ代のやま

ステンシルのイラストや本の紹介、麹の話、そのたいろいろ。

明月記を読む読了

明月記を読むを読み終えた。
はっきりわかったのは、
私には和歌を鑑賞するのは無理ってこと。
古今集新古今集の時代の歌は、
やはり基礎知識、教養がないと無理や。
素朴な万葉集や、和歌が避けた、
リアルなものや日常的なもの上品でないものも詠んだ今様、
など複雑でないやつがいい。

それでも非常に面白かった。
この時代が面白いというのもあるが。
後鳥羽院の時に編纂が始まった新古今集だが、
承久の乱で、あっさり鎌倉にやられた後鳥羽院は、
壱岐島流しになる。
ここでほぼ出来ていたのに頓挫するが、道家が諦めず、
後堀河天皇に働きかけ、再度うごきだすが、
なんとこの天皇は23歳で死んでしまう。
定家は絶望して草本を庭で焼いてしまう!短気
ところが道長は死んだ天皇のところにあった草本を見つけ出し、
なおも継続を定家に迫る。しつこい
鎌倉幕府に睨まれないように、
最後に島流し組の歌は抜かれる。

新古今の紆余曲折を経た編集仕事も終わり、
最晩年の定家は息子為家の妻のお父さん、
宇都宮頼綱の頼みで、障子を飾るための色紙に、
古来からの秀歌百首一人一首を選び、そして書く。
これが小倉百人一首の原型と言われる。

私は子どもの頃からお正月には楽しんだし、
高校の時はクラス対抗のかるた大会の選手にもなった。
そしてこの前自分のかるたを作るにあたって、
京都のかるた屋さんを訪れたが、
ここは競技用の公認かるたを作っていて、
江戸時代に描かれた尾形光琳の絵による光琳かるたという、
大変ゴージャスな百人一首も作っていた。
そんなんで百人一首にはいろいろ馴染みがあったが、
今回初めてわかったことは、
勅撰集新古今からは抜かれた、島流し組、
後鳥羽院と順徳院の歌が百人集には入っているのです。
定家は最後の方に後鳥羽院と喧嘩するのですが、
院の歌は高く評価しており、
この勅撰集ができたのは歌を理解し愛好した彼がいたからで、
本当は抜きたくなかったんですね。
定家はお父さんの俊成もそうだったけど、
嫌いな人、好きな人、親父、子ども、そういう個人の関係より、
とにかく歌の内容、良さ、と言うものを、
常に優先しきちんと評価した。
親子揃って、歌こそが一番大事だったのだと思う。

とっても面白かったが、一箇所誤植を見つけてしまった。
こういう本で誤植はちょっと残念。
定家なら見逃さなかっただろう。
本文の印刷用紙がスベスベで気持ちいい繰り心地なのは、
良かった。

「明月記を読む」高野公彦著 短歌研究社