松井なつ代のやま

ステンシルのイラストや本の紹介、麹の話、そのたいろいろ。

「周期律」3

周期律の21編のどれもがそれぞれに面白い。
最初の「アルゴン」は著者のルーツにまつわる、
さまざまなユダヤ人、その言葉や文化が色々披露される。
化学者として塗料会社で仕事をしていた頃の、
実話をもとにしたものもあれば、
まったくの創作の、
時代も場所も不明のファンタジーのような物語もある。
ともかくバリエーションが豊富で、
その並べ方もよく練られており絶妙にうまいと思う。

あまりにも登場人物が印象的で忘れがたいのは、
「鉄」である。
これはトリノの大学で学んでいた頃の話。
どの一遍も繰り返しになるが素晴らしいのだが、
鉄の中には非常に重要な記述も多い。
サンドロという学友が出てくる。
学生の中で極端にユニークで孤立している存在。
ピエモンテの貧しい山の中の出身。
彼は頭脳明晰であったので、地元の期待を受け、
進学していたが、夏の間は羊飼いであった。
本物の羊飼いである。
須賀敦子さんの本に、
山から下りてきたばかりの羊飼いと出会うシーンがあったが、
その独特な雰囲気は神秘的ですらあった。
これほど古くからあり、
エスの誕生のストーリーにも出てくるし、
変わらない職業が他にあるだろうか。
リーダーとして羊を導き、
長い時間を羊とともに野外で過ごす。
いわばかなりの程度、羊である。
サンドロは身なりから話し方から何から、まさに古典的な、
羊飼いのメンタリティをもったまま、
大学で化学を学んでいたのである。

著者は山登りが好きである。
これを読んで、山の楽しみを教えたのが、
このサンドロであったと知る。
楽しみとは言えかなり激しい山登りで、
生易しいものではないけど。
体も心も恐ろしいほど頑健で、
何者にも負けそうにない彼であったが、
ファシスト党に捉えられ、脱走を試み、
後頭部を撃たれて死ぬ。
ファシストが埋葬を禁じたため、
サンドロの遺体は街の通りに長く放置された。

戦争というのは本当にもったいない事しかしない。
サンドロのような人はいったいどんな人生を送っただろう。
今でなければいつ、の中で、
ロシアの平原で、
遠くから沸き起こる羊飼いの歌を聞くシーンがある。
ここが私はすごく好きだったんだけど、
この時プリーモ・レーヴィは、
サンドロの事を思い出していたにちがいない。
そうに決まっている。