松井なつ代のやま

ステンシルのイラストや本の紹介、麹の話、そのたいろいろ。

「休戦」6

ロシア人と歌についてもう一つ、
短い文章だが非常に印象的だった話を。

長い間いろんなところで散々待たされ、
その都度、希望や郷愁の思いと絶望を繰り返したが、
ついにイタリア人たち、(アウシュビッツ生き残りだけではなく)
総勢1400人を乗せた列車が出発することになる。
小さな駅で、またまた待たされている。
駅の周辺は果てしない牧草地で、
レールがめまいがするほど遠くまで続いている。
「出発前夜の長い晩に、
抑揚のある羊飼いの歌がかすかに聞こえてきた。
一人が歌いだすと、次のものが何キロも離れたところから歌で答え、
さらに次々と続いて、地平線全体から歌声が上がった。
まるで大地全体が歌っているかのようだった。」

我が国では馴染みが薄いが、
羊飼いという職業はどこの国でも最も孤独な仕事の一つである。
と、私は認識している。
広大なロシアにおいてはとりわけそうであろう。
しかし、彼らには歌があった。
何キロも離れた仲間と歌でやりとりするとは。
地平線全体から歌声が沸き起こる夜のこの描写は、
まさに神話の世界かと思わせる。
レーヴィは何でもよく覚えているが、
この晩の事は忘れられなかったのではないか。

著者は一緒にアウシュビッツに運ばれた、
650人のイタリア系ユダヤ人の中で、
生き延びた24人の一人である。
本人も言うように様々な幸運が重なって、
こういう結果になった。
彼は大多数の死んでいった仲間の代わりに、
少しでも、そこであった事そこで出会った人について、
書き残そうとしている。
しかしながらアウシュビッツの毒は体の奥に、
しぶとく生き続け、ついには彼の自死を招いた。
何と執念深く恐ろしい毒であろう。
しかし彼の著作は世界中で読まれ、
日本の私にも大きな感動を与えてくれた。
心から感謝する。

「休戦」
プリーモ・レーヴィ著作
竹山博英訳
岩波文庫