松井なつ代のやま

ステンシルのイラストや本の紹介、麹の話、そのたいろいろ。

手のこと

追悼文というのは、
時々ただの自分の自慢話になっていて、
不愉快なことがあったのであまり読みたくない。
書く人の問題であって、
書かれる人にはもちろん関係がないのだが。
たまたま目についてさらっと読んでしまった、
追悼文の中で、石牟礼さんが、
手を使うということを言っているところがあった。
手というのは大変に使い勝手がいい体の一部である。
身体が関わることで変わることがある。
知識が本当の理解に変わるというか。

石牟礼さんは白川静を大変尊敬していて、
対談もあるが、その白川さんは、
来る日も来る日も、中国の古い文字を、
書き写し続けた。
白川さんの辞書は凄まじい大部のお仕事であるが、
私は字通しか持っていないが、
文字一つにつき読みや意味と同時に用例が出てくる。
この文字がなんという本の中でどんな風に使われたか、
これも一つづつ彼が選んだものである。
この辞書のシリーズは、
白川さんが一人で書かれたものである。
この本のここというようなメモを娘さんに渡し、
娘さんが原典にあって、正確に書き写す、
というように娘さんが部分的にお手伝いしたらしい。
しかしである、この字がどの本のどこに出てくる、
という情報は全て白川さんの頭に収まっていたという事。
こういう事は私にはありえない奇跡のように思える。
しかし、南方熊楠もまたこういう風であった。
手を使い書き写す事で知識は体の組織の中に、
組み込まれ整理される。
それらは自由に取り出しが可能で、
そして人によっては果てしないほどの量が収まる場合もある。

近頃知識はあるが何もわかっていないみたいな人が、
割にたくさん見受けられるが、
これは体に入っていないという事ではないか。
私は自分で手を使うという事を意識してやっているが、
やはり昔のひとほどはできていない。

手仕事というのは、頭のあるいは心の仕事でもある。
手は人の非常に深いところにつながっているのではないか。
手は本来、驚くほど多様な仕事をこなせる。
手を使えば使うほどきっと驚くほど多様な何かを、
自身の中に蓄える事ができる。
のではないかなぁ。