松井なつ代のやま

ステンシルのイラストや本の紹介、麹の話、そのたいろいろ。

近江八幡、あるがん様

テレビを見てから、
滋賀県近江八幡面白そうやなぁと、
ちょっと調べてみたら、
冗談抜きに行きたくなってしまった。

老人や老犬がいて釘付けだったせいで、
旅行というものをしたことのなかった私が、
このところ二度ばかりの旅行で、
完全に味をしめてしまった。
「冥土の土産や、どんどんいけ!」
と心の中で何者かが叫んでいる。

近江八幡周辺は聖徳太子の時代から、
戦国時代、江戸時代、明治と、
あらゆる時代にいろんな栄え方をしてきた。
人の好みというのは理由がわからんものもあるが、
私はなぜか石垣が好きである。
古い石積みを見るとうっとりする。
安土城跡の石垣も良さそうなのである。

またあの「あるがん様」のセミナリヨ跡がある。
なにも残っておらず、ただの跡地であるが、
オルガンティーノのセミナリヨ跡という、
大きな柱が立っている。
こういうところも長崎のキリシタン遺跡に比べると、
あっけらかんとしている。
暗い、隠したいみたいな雰囲気はない。

九州は布教の最大の拠点でしたがもう一つは関西でした。
宣教師たちはやはり都を狙った。
だから関西にはキリシタンがかなりたくさんいた。
ジュスト右近の高槻のように、殿様から下々まで、
城下そっくりがほぼキリシタンという所も。
この前も出てきた大阪の南蛮文化館は、
(個人の収集品を見せる私設の美術館で、
一年のうち半分しか開けていない)
福井で竹筒の中から発見された聖母の絵や、
金沢で見つかったメダイなどを所蔵していましたから、
北陸も案外いたのではないかと思います。

それでもなんども何度も「崩れ」が繰り返されたのは長崎で、
つまり、弾圧されても信仰を捨てない人が、
たくさん居続けたということです。
政府の出先機関の長崎奉行所が、弾圧の実行部隊でした。
弾圧に堪えかね棄教した人、転びという人が、
手先になり、とりわけ激しく残酷な取り締まりをしました。
そしてつぎ次とより苦痛を長引かせ苦しめる拷問や、
処刑のやり方を発明していった。
棄教したひとは、信仰を捨てないひとに対して、
やはり特別な憎しみを抱くものなのでしょうか。
そういう心理が長崎の隠れ切支丹への差別につながり、
さり気なく今日まで尾を引いているような気がします。
やはり長崎は特別な複雑な所かなぁと思う。

オルガンティーノというイタリア人のイエズス会宣教師は、
日本滞在が長く日本語 も上手で、人柄も温和で、
キリシタン以外の人からも人望が厚かった。
同じイエズス会でも、スペイン、ポルトガルの宣教師は、
本国の無敵艦隊気質というか帝国主義気質があって、
征服タイプの布教をしたが、イタリア人である、
ヴァリニャーノやオルガンティーノは、
日本人の考え方に合わせた布教の方が、
実際に効果もあげやすいと考えていたし、
所詮白人の上から目線ではあるが、
多少なりの日本人や文化に対するリスペクトはあった。
その代わりというか、オルガンティーノは教会の備品や聖具、
ミサの聖歌のクオリティーなどに強いこだわりがあって、
そこらへんイタリア人らしいかなぁとも思う。
ま、そんなあるがん様だから信長からも好かれ、
秀吉でさえ一目置いていたらしい。

最初の殉教者26人は京都周辺で捕らえられた。
彼らは耳を削ぎ落とされ、引き廻されながら長崎まで歩いて、
西坂という刑場で処刑されたのである。
(彼らは後に列聖されここに26聖人記念館が建てられた)
12歳と13歳の子供も含まれている。
子ども用には小さな磔用の十字架が立てられた…
この時はイエズス会関係者は除外された。
(実際には三人が含まれていたが)
これを命じたのは秀吉その人であるが、
京都の老人には安心せよと伝えるようにと命令している。
この老人というのがあるがん様である。
(あるがん様自身は殉教するつもりでいたらしいが)

日本のキリシタンに対する拷問や処刑法は後になるほど、
いよいよ残酷さを増し、ちょっと引用するのも嫌である。
この憎しみはどこから来るのかと恐ろしいほどであるが、
幼い子どもも除外しないというのは、最初からであった。


ともかく、近江牛もうまそうだし、
美しい掘割、水路があるしなぁ。
近江八幡はたぶん絶対ええとこじゃろ。