松井なつ代のやま

ステンシルのイラストや本の紹介、麹の話、そのたいろいろ。

市場にて

ハマグリを持った人が、柿欲しい!と思って、

私も久しぶりにハマグリいいじゃんと思ったら、
2人で柿1個につきハマグリ何個で手を打つか、
話し合って決めればいい。
相手が柿を熱望したにも関わらず、
私がハマグリにそそられなかった場合は、
商談が成立しない。
これは双方にとって不利益になるので、
当然の流れとして貨幣と言うものは生まれただろうと思う。
とりあえずお金を介在させれば、
相手は柿をゲット、私はその代金を持って、
栗ないかなと探しにいくことができる。
言い忘れたけど、ここは市場なのです。
網野さんは個人と所有するものは特別な関係で繋がっているから、
無縁の場所で関係を切ってから交換が可能になるという。
これに反論として、
縄文時代には既に素焼きの容器に入った、
商品を前提にした塩が作られていたし、
人と物の関係はそんなに強い?
という意見もある。
柿やハマグリなどの天然物ではあまり強くないかもしれないけど、
容器入りの塩などは手作り感はあるだろう。
私の感覚としても、母の編んだセーターは捨て難い。
知らない人が作った物でも、着物が捨てにくいのは、
手の跡が濃厚に残っているからだと思う。
ただこの感覚は個人差が大きく人の知識にも関係する。
大島紬や漆物の製作過程を知っているとからこそ、
作り手の気配を強く感じるし、捨てにくいのだろう。
値段とは関係がないように思う。
そういうふうに考えると、
経済活動の爆発的な拡大は、
やっぱり機械による大量生産、
産業革命が契機ということだな。