松井なつ代のやま

ステンシルのイラストや本の紹介、麹の話、そのたいろいろ。

無縁系

安富さんから網野さんの話が出てきて、
そうなんだよなぁと思う。
我々は社会の一員になってしっかり組み込まれないと、
実は日々の生活的には困るわけだけど、
それは精神的には確実に不自由な状態であって、
社会生活と自由とは絶対に共存できない。
れいわの船後さんと木村さんが、
重い障害を抱えながら国会議員に立候補した事は、
私などにはとても真似の出来ない重い決断である。
しかし彼らはほんの短期間で決断している。
この自由さ大胆さはなんだと言えば、
やはり無縁という話が腑に落ちる。
彼らはその障害によって好むと好まざるとに関わらず、
社会のある部分から締め出されている。
それは不便で残念で困ることなのは確かだけど、
一種の精神の身軽さ強さ自由さでもある。

子どもが生まれて出生届を出すと、
何日にワクチンを打ちに行けと言われ、次はいつが検診だ、
ほれ幼稚園だ、就学年齢だ小学校に入れろと、
次々に指令が飛んでくる。
これはありがたいことで、ないと困ることだけど、
私はあーあ、ついに私も、
こんなことにになったんだなぁと思った。
子どもを通して再度がっちり捕まえられた。
その残念な悲しみをよく覚えている。
それまでの私は無法者であったから。
新宿で酒を飲んで酔っ払い運転のバイクで、
ぶいぶい板橋の家に帰るというような、
遵法精神のかけらもないような奴だった。
それがこんなになっちゃってさ…と。

あと山、山こそは無縁者の場所である。
プリーモレーヴィを読んだ時、
彼はパルチザンの仲間に入り、そこで逮捕されたわけだが、
当時パルチザンに身を投じることを、
「山に行く」と言ったという。
イタリアでもそうなのかと思った。
実際にパルチザンの隠れ家は山にあったわけだが、
もちろんそれだけの意味ではない。
私は登山の経験はごく少しだが、
今までの登山は満足していない。
高かろうが低かろうが、登って降りてくるって、
ちょっと意味不明だと思う。
私がやりたいのは山の中を移動してどこかに行くこと。
そういう登山を一度でいいからしてみたい。