松井なつ代のやま

ステンシルのイラストや本の紹介、麹の話、そのたいろいろ。

法然

法然少年は本当に賢かったと見えて、
13でお山に入るのですが、
先生に私じゃ荷が重い、もっと偉い先生とこ行きなさいと、
たらい回しされるほどだったのでした。
仏教には中国の偉いお坊さんの書いた本や、
それを学んだ日本のお坊さんの書いた本など、
沢山の立派な蓄積があり、
それが教理という仏教理論の体系です。
法然はそういう本を片端から読んで、
何年もかけてお勉強して、結局山を下りる。
挙げ句の果てに!
仏さんの名前を唱えるだけで良い!
という異常にシンプルなところにたどり着くのです。
法然はいろんな難しいことを勉強しないと、
浄土に行けないなんていうのはおかしい、
学のない人も賢くない人も煩悩まみれの人も、
いわゆる凡夫も救われる道があるべきだと。
これは仏教界では新しいアプローチで、
要するに新興宗教な訳でした。
大原談義、東大寺講説などの場面では、
並み居る宗教界のお偉方の前で、
公開討論のような事をしている。
みんなたちは、法然ってどうなの?て感じで、
たくさん集まったのだけど、超自然体で登場して、
あっさり論破みたいな感じだった模様。
その後念仏の広がりと共に、危険視されて行き、
流罪を食らう訳だけど。
東大寺講説は本になって残っている。
元は漢文で書かれていて、
それの読み下し文の一部を私は読む訳だけど、
漢文というのは実に明快で曖昧さが無く簡潔。
当時の日本では公的な文書も、
お坊さんが読むもの書くものもすべて漢文であった。
法然がそれをお話しする時は、どう言う話法だったのだろう。
とにかく言葉の体系は思考の現れたものだから、
法然たちの頭の中は、きっとくりっと明確であったのではないか。
近年の日本語はいよいよ曖昧を目指しているような気がする。
日本人の頭の中はドロドロではないだろうか。