松井なつ代のやま

ステンシルのイラストや本の紹介、麹の話、そのたいろいろ。

「春の城」前の方2

一般的に島原の乱と言われるが、
石牟礼さんは天草・島原の乱と天草を入れて書いている。
天草の人たちもたくさん参加したせいなのだろう。
乱の後天草の人口は半分になった。
この一揆の参加者は3万7000人。
全滅した。
これを鎮圧した幕府側は実に12万人の兵を投入した。
オランダの船を使って海からも攻撃した。
これはローマでは殉教と考えていない。
発端は重税に対する抵抗の一揆であったからだが。
しかしそれは、
キリシタンには何をやっても構わないという、
明らかなマイノリティに対する、お上のやり口である。
重税を課すという手段での宗教弾圧でもあると言える。
最終的には彼らは信仰を支えに、
驚異的な戦いの果てに死んだわけで、
やはり殉教と言えるのではないかと、
今は思う。

今回の旅で、行きたいなぁと考えていた場所が、
石牟礼さんの本にたくさん出てくる。
天草の本渡市キリシタンの博物館や、
島原城の中ににある、
やはりキリシタンの博物館などがそうだが、
どちらも行けないので残念である。
また口之津という場所も行きたい所であった。
島原半島の最南端だが、すぐ前が天草の島である。
迫害が始まって、有馬から、
セミナリオが引っ越してきた先である。
ここに少年使節の一行が持ち帰ったあの印刷機も、
引っ越してきていた。
現在の口之津では、
どこを探してもキリシタンの遺品は出てこない。
乱の後徹底的に破壊され、火を放たれたのではないかと。
地元の資料館の館長さんが話している。
ここは全員がキリシタンの、
キリシタンの巣のような場所だったと。
口之津の住民は年寄りから子どもまで、
一人残らず死んでしまったのである。
こういうリアルな話を読むと、シュンとしてしまう。

石牟礼さんは東京のチッソ本社前で、
座り込みをしていた時に、
島原の乱の構想を考えていたという。
要するに水俣も島原も、
マイノリティに対する権力の迫害、弾圧、暴力なんだな。