「無銭経済宣言」7
著者が言うように、
社会的受容、承認欲求と言うものは、
なかなかに根の深いものである。
私の予想だが、ヒトが一人では生きられない、
集団に受け入れられて始めて、
生きていけるというタイプのサルである事と、
関係があるのではないか。
実際、自分がクソだと思う社会にすら、
受け入れられたいと思う様子は、
馬鹿らしいというより、いたわしい感じを受ける。
外側にまとう物語のように簡単に脱ぎ捨てる事ができない。
(それも随分深くまで染み込んでいるにしても。)
自分自身の事を考えても、
完全に捨てるのは不可能なのかもしれない。
昨日たまたまビッグイシューで、
うつの話を読んだが、
鬱や不登校やいじめ自殺などは、
他に多くの要因があると思うが、
この社会的受容の関わる問題だろう。
混ぜてほしいけどうまく混ざれない。
混ざれない人を攻撃する人も、
実はちゃんと混ざれていない人かもしれないし、
(混ざれない人を攻撃する事で、
主流派にアピールする必要を感じるほどに、
自分の混ざり具合に不完全さを感じている?)
現在主流の物語に適応できない人は、
意外に多いのかもしれない。
主流の物語それ自体に疑問を呈するのではなく、
自分の方を攻撃してしまうと言うね。
主流の物語が代われば受容の困難も減るだろう。
また、最近風当たりが強いみたいな赤ちゃんであるが、
赤ちゃん自身は生産者労働者たりえないから、
お金の物語の行きすぎた社会では、
老人、病人、障害者同様に疎んじられるのであろう。
そのお世話にかかっている若い親たちもひっくるめて。
実に嘆かわしい事であるが、
それらのものたちの偉大さは見向きもされない。
自分自身の今を生きられず、お金の物語の、
構成員である事しか誇るべきものがない、
そういう追い詰められた人が多いのかも…
お金の物語の犠牲者多すぎじゃないかな。