松井なつ代のやま

ステンシルのイラストや本の紹介、麹の話、そのたいろいろ。

scriptaから、「葵上」

紀伊國屋の出しているフリーペーパーの、
scriptaはお気に入りの連載が二つ終わったので、
どうかなぁと思っていたが、
安田登先生の話、新連載「哲学の門前」吉川浩満がよかったし、
都築響一は相変わらずのハイテンションであった。

安田先生は能楽師である。
毎回日本の古典文学について書いているが、
前回から引き続き「源氏物語」である。
私は家にあったものすごく綺麗な絹の装丁の、
〈谷崎源氏〉を大昔に読んだだけで、
さほど興味もなかったようで、あんまり覚えていない。

源氏を題材にした能「葵上」についてである。
有名な六条御息所の生霊が葵上に取り憑く話である。
私は能は全然見てないので、残念ながらこれも見た事がない。
能は面をつけるわけだが、
シテ(六条の生霊)が最初に着けるのは「泥眼」でいがん。
一見普通の女面ですが、白眼に金泥が塗られている。
これがろうそくの明かりで時折、
きらりと光って涙のようにも見え、
恨みの奥の悲しみを垣間見る事ができると。
また後半ではシテは般若面を着ける。
ここでは悲しみとともに恐ろしさが際立つ。

つまるところ男女関係の嫉妬の話なんだが、
結構激しくどろどろしたものである。
江戸時代、能は武士のものであった。
しかし謡は万人に開かれており寺子屋の教科書にもなっていた。
子供たちも、このどろどろ憎愛劇を習っていたんだと。
1970年くらいまでは、東京で観世流に限って見ても、
謡を習う人は10万人いたらしい!

源氏物語の中では六条の恨みや執心は、
さほど露骨に描かれていないが、
舞台化される事によってデフォルメされ焦点が合う。
男女の恋愛の執心があらゆる執心の象徴となる。
「葵上」を舞う、謡う事で、自分の執心を意識化し、
昇華させる事ができる。
それによって普段無意識の海の底に沈めている、
自分の怪しい煩悩も昇華し、
無意識の大海に引きずり込まれずに済むというわけである。
「これが能の、ひいては物語のひとつの役割でしょう」と。
そうか、そうだったかと納得した。

私たちは物語を読むとき、そこで描かれるある人生の問題を、
象徴として見る事で、我が身に降りかかるその類の問題を、
理解したり整理したり、
乗り越えたりする事ができるというわけである。
なるほどでしょ?
能も読書もやばい事にならないための予防措置として、
有効だという事だな。